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2 田尻智ワールド〜 ロングインタビュー

(2000年5月2日、 ゲー厶フリークにて収録)

1 ポケモンの着想

ポケモンの始まりは、1989年4月ごろ。ぼくがちょうど自主制作で最初のゲーム、ファミコンの『クインティ』をつくったころです。ゲーム業界では、ゲームボーイが話題になった時期と重なりますね。ゲームボーイの発売の直前、通信機能がついて2台がつながる特徴について聞かされていたので、実際に手にとる前からイメージが膨らんだんです。ところが、実際に発売されたゲームは4〜5種類しかなくて、しかもみんなほとんどがテトリスをやっていた。通信機能も、競争データをやり取りするために使っていた。ですから、購入する前のぼくのイメージと、買って実際に遊んでみてのゲームボーイのイメージは、ちよっとずれていた。その2年ぐらい前、すでにゲームセンターに通信機能搭載というゲームが出ていたんですよ。ナムコが5〜6

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第4章 ポケモンワールド

台のゲーム機をつないで、たとえばバックミラーに後続車両が写って、5台全部の位置関係がわかるというようなレーシングゲームでした。そのときから、通信というと、自分なりにいうともう少しまとまった情報が行き来するようなーーまだインタ—ネツトはなかったんですけどーーインタ—ネツトの仕組みに近いんだと勝手に思っていました。いわば、パケット通信のようなもの。情報が封筒の中に入って、その封筒が行ったり来たりするようなイメージです。ま、そんな目に見える感じの情報ですね。そんなイメージがずっと頭の中に引っかかっていたんだけれども、ゲームというかたちには結びつかなかった。

ぼくは、もともと猛烈なゲーム・プレーヤーでした。それが、ぼくのゲームへのアプローチの始まりですから、テレビゲームへの喜怒哀楽っていうのが昔から強かった。初めは面白いと思って喜んでプレーしていたのに、ちよっと商売になると思って大勢の人がゲームの世界に入ってくると、ゲーム市場全体のクオリティは落ちてくる。そうなると、頭にくるんですね。何でこうもつまんないゲームばかりが出てくるんだって。ぼくだったらこういうものがゲームの世界に欲しいんだけどな。よし、いっそのこと自分でつくってしまおうーー。そう考えたのがゲームソフトづくりの道へ歩み始めたきっかけです。ほかのメディアだと、たとえば映画評論家で才能のある人が映画監督になる感じと似ているかもしれませんね。

それで『クインティ』を作ったんですが、そのあと、何をしようと思っているときに、ゲームボーイの通信機能に引っかかったままになっている自分がいた。

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実はそのころ、すでに今のポケモンの原型になる企画書を書いていたんですよ。つまり、友達が向き合って 「つなげてみるかい」「そうだね」って言ったときに始まるコミュニケーションのツールとしてゲームボーイが働 くとしたら面白いんじやないか。そんな話です。先ほど話した、目に見える情報の交換。コードだとかケーブル の中を情報を行ったり来たりする。しかも、ここで言う情報というのは、ある種の価値とイコールの意味を持つ ている。そんなゲームができないか、と思っていた。

当時はゲームフリークが会社になるかならないかという分かれ目の時期でしたね。自主制作でゲームをつくっ たのはいい。それである程度の評価を得てお金をもらって、この世界でなんとか生きていけそうだと思ったのもいい。でも実際に、会社化するのか、というところで立ち止まった。いまのように ベンチャー、ベンチャーとまわりの人がはやし立てるわけでもない。だったら、み んなで入ってきたお金を山分けしてさよならする手もあるわけです。ただ、額とし ては5000万円くらいあったから、本気で会社を立ち上げるなら今しかないとい う状況だったわけです。

そこで、さっきの話に戻ります。一緒にいる杉森などの仲間3、4人で、ゲーム のイメージをたたき台にして、最初「カプセルモンスタ—」というプランを出した。 いまのポケモンの原形です。繰り返しますが、そのときポケモンというゲームのヴ

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●「クインティ」

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©1989 GAME FREAK/NAMCO LTD.

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第4章 ポケモンワールド

イジョンは出来上がっていたんです。ホントはそこからが大変なんだったんですけどね。企画書のポイントは、ひとが欲しくなるような怪獣をお互いに持っている、そしてお互いに持っていない怪獣を交換して両方とも得をしたら、それで仲良くもなれるということでした。その土台にゲームボーイがぴったりだ、というわけです。ではゲームにするときに、大切なものは何か。A君とB君がモンスターを交換してA君のモンスターがB君に移ったとします。そして今度はB君がC君とそのモンスターを交換して、もともとA君のものだったモンスターがA君の知らないC君のところまで行くっていうことなんですね。するとB君というのを媒介にして、本来はコミュニケーションのなかったA君とC君の間の関係性が成り立つんですね。そういう遊びが具体的に作られれば成功だと思ったわけです。

そこで、石原さんを介して糸井重里さんのところへ持っていった。最初の企画書を出したら、いいんじゃない、すぐにやろうということになつた。ところがここで、泥沼に入っちやった。

そもそも大が欲しがるものはお互い欲しがる。これ、当たり前です。その欲しがるものを作るとなるとこれは大変なんだ(笑)。じや、そもそも大が欲しがるものって一体なんなんだと。

もっと具体的にいうと、魅力があるものを各自が持っているとする。その上でお互いが交換したくなるようなものって一体なんなのか。ほんとに魅力のあるものを各自が持っているのならば交換なんか別にしなくたっていいじやないか。提案としてはいいんだけど、具体的に詰めていくと、文字どおりはてしのない泥沼でした(笑)。

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『クインティ』のときに、ゲームをつくる会社があり得るんじゃないかと思って始めたのはいいんだけど、そのときの予算でいうと、半年でポケモンのようなものが出来上がらないとビジネスとして成り立たたなかった。それが途中で、さっきいった泥沼のような罠があると気がついた。これは厄介だなあと、時間がかかりそうだなあと思って石原さんに相談すると、彼からも、このゲームを作り上げるにはてこずりそうだね、と言われた。ただ、もう会社にした以上、自分はともかく、社員がいますからね。自分は食べないで我慢できても、他人はそうはいかない。会社を作るというのはぼくにとってすごく負担だったですよ。会社を作るっていうのは、他人に責任を持つことの証明だと思ったわけです。それで、石原さんに相談して、なんか、ポケモンをやりつづけるために、とりあえず明日のためのその1みたいな形でね、何かする仕事はないでしょうかと相談したんですよ。それでできたのが『ヨッシーのたまご』だったんです。

もうすでにスーパーファミコンが出て、これからはスーパーファミコンの時代だといって業界全体が動いているときでした。で、『スーパーマリオワールド』ではじめてヨッシーという緑の恐竜のキャラクタ—が出ていた。これは、かなり人気があったんですよね。そこで、もうひとつ、ワンアイデアで、このヨツシーというキャラク夕ーをみんなが覚えていけるような、キャラクター提案型のゲームを作らないか?と言ってもらったんです。それがこのゲームをつくるきっかけでした。

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第4章 ポケモンワールド

2 ゲー厶ボーイ

なぜ、ぼくがゲームボーイに固執して、新しいことをやりたいと思ったか。

中学生のときに、はじめてテレビゲームに触れて、こんなに面白いものがあったのか、と衝撃を受けた。それから、家に帰るとすぐにゲームセンタ—に通う毎日になったんです。そのあと塾に行って、塾の1時限と2時限の間に10分とか15分の休憩時間があるんだけど、その休憩時間になると、すぐに近くのゲームセンターに走って、ゲームをやるんですよ。たまに授業に遅れたり、サボったりしてね。そんなとき、もう止めなきやいけないんだけど、このままずっとやりたいっていうジレンマがあった。

そんな中学校のときの体験をポケモンを作っていた間もたびたび思い出したんです。生活の中で、勉強と遊びが両立することはなかなかないなあ、と思ったりしてね。セーブ機能なんかも、いままでだと、ゲームの中で、遠い町であろうとひとつ進んでおかないとセーブできないのが常識的で、みんなその常識に沿ってゲームをつくっていた。それを、やめたいとおもったときに、すぐにメニューが出てきてセーブできるようにしたかった。たとえゲームの中で、三歩しか歩いてなくてもね。

話は変わるけど、ぼくは、ポケモンを作るまで、人生の大半をゲームに費やしてきた。だから、かなり豊富な

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体験がある。

たとえば、ゲームをずっとやりたいけれども、お金が無限にあるわけじやないから、100円でどのくらい長く遊べるのかをチャレンジしてみたりした。ゲームの歴史では、1ゲーム100円で2分、業界やメーカーの立場で言うと、1ゲーム2分以上遊ばれると採算が取れないから止めてくれというのがあります。それで、実際にそういう風につくっていた。1970年代のゲームは、2分の時間が表示されていて、120(秒)がどんどん減っていて0になるまで遊べる。起承転結はない。潜水艦のゲームでひたすら爆弾を落としていっていて、ぱっと終わると、カウンターがゼロになっているという仕組みです。要するにタイマーですね。1ゲーム2分といったら2分で必ず終わる。

でも、これでは、遊んでいる人がほんとに満足できるかどうかあやしい。メーカーとかゲーセンの親父の都合でそうなっているわけですから。そこで、だんだん遊び手の立場に立って、うまければ、ちよつと長く遊べるゲームが出てきた。それが70年代後半の、インベーダーゲーム登場の時期ですね。インベーダーゲームが大ブームになった理由のひとつは、遊んでいる人の立場に立って、うまいならうまいなりの遊び方ができるということ、

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●「マリオとワリオ」時代、ゲームフリークの仲間たち

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第4章 ポケモンワールド

うまいほど長く遊べるという仕組みがあったからですね。

あの頃、ブルーシャークというゲームがあった。深海で鮫を撃つゲームです。そっちの方がインベーダーよりもこの夏の大当たりといって、タイトーなんかは自信まんまんでした。ところが、このゲームは全然だめで、社内の一部署のおじさんがつくったインベーダーゲームの方がブームになって、ゲームの世界が変わった。最初は、展示会でも隅っこの方にひっそり飾られているだけだったんですけどね。

それからですよ。ゲーセンで、うまくなると長く遊べるゲームがメインになったのは。

さっきの話に戻ると、うまくなるとほんとに100円で1日中遊べるようになる。ただし、それは一種の頂点ですから、そこにいきつくまでには、かなりカネと時間を使います。そのうえで、頂点までくると、今度はどれだけゲームに真面目に付き合うのか、という禅問答のような世界になってしまう。たとえば、10時間、20時間遊ベるからといって、じやあ、ほんとに10時間とか遊ぶのかといったときに、途中で飽きちやって席を立つのが普通でしょう。そのとき、ぼくは、あえて真面目にゲームに取り組んでみた時期があって、12時間ぶっつづけでやってみたりしたんです。

そのころは、「こんな物好きは自分ひとりだろう」と思っていたんだけど、実は、同じようなやつらが、日本中で、同時多発的にいたんですね。やっぱり、あのときのインベーダーくらいインパクトがあって夢中になって遊ぶと、このゲームは一体どうやってできているんだろうと、気になってくる人間がいる。ぼくも、そんな人間

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の1人でした。それまでに、ラジオとか、ハンダ付けして作ったりする趣味があったからなんですけどね。本物のインベーダーゲームというものが提供している総知識量とか総情報量というのは、みんなの想像を超えるくらいあった。おそらく作り手の予想以上にね。プログラムに対する著作権という概念がまだなかった時代ですから、インベーダーゲームって流行ってるよなあって思っていると、もう、そこらへんの電気に詳しい親父がコピー品を作り始めていた。ROMをコピーして、基盤をコピーすれば出来上がるというので、どんどんそんなコピー品が出回っていたんです。

で、S社なんかは、中途半端なプライドがあって、うちはコピーは作らないといって、ーからプログラムを書いた。ゲームの中身は同じ、インベーダーなんですけどね。

それで、タイトーとS社のゲームをくらべるとよく分かるんだけど、提供している情報量とか知識量が圧倒的に少ないんです、S社のほうがタイトーのものよりも。

たとえば、S社だと回路を洗練させてスピードアップしたために、横11列縦5列で55匹のインベーダーがざっざっと動くというとき、ぞろぞろ歩いて迫ってくる感じがかえって薄くなる。

タイトーのインベーダーゲームは、スピードが遅いから、55匹の端っこから1匹ずつ、つつつつって来て、全体が1歩歩いたという感じになるんです。すると、動きにずれが生じますから、ビーム砲を打ったときに、群れの真中のインベーダーに当てることができる。隊列が乱れますからね。それがS社のゲームだと、絶対に真中の

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第4章 ポケモンワールド

インベーダーには当たらない。全体がぱっと動くと、隊列が乱れずにぱっと動くから当たらないんです。タイトーではインベーダーのハードもソフトも西角さん(西角友宏)という方がつくったんですが、この人のイメージよりも実際には一桁多いくらいのことができるゲームになっていた。爆弾をたくさん落とせばむずかしくなるんだけど、遅いものだから、写真を撮ってみると、いつも1画面に2個までしか出てこない。そのときに、なんか、インベーダーがウンコをしていたようにも見えたわけです。つまり、インベーダーの真下から爆弾を出すとね。それで、ちよっとだらしがないんで、ミサイルが画面に表示されるときに、インベーダーのちよつと下

に出るようにしたわけです。そうしたら、インベーダーの軍隊が一番下のぎりぎりまで来たときに、ビーム砲1個分の真下からミサイルが出る。これでいわゆる「名古屋打ち」という状態ができる。つまり、一番ぎりぎりまで寄ったとき、敵の弾に当たらない状況ができるんです。それで、それじゃみっともないからといってミサイルが出るところを変えたがために、そういうテクニックが生まれたんですね。でも、そんな可能性までは西角さんはおそらく考えていなかった。

一方のS社は、そのときにーからプログラムを作って素直にインベーダーの真下からミサイルを出していますから、S社のゲームでは、名古

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●石原さんと語らう田尻さん

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屋打ちはできないんです。

こうした話は、ゲームデザインの具体的な分析がまだできない時代だけに、遊んでみてわかる。ぼくのような中学生くらいのプレーヤーにとっては、駅前のあそこではできたけど、釣り堀の横のゲームセンターではできなかったとか、そんなのを体験として覚えている。その体験を一応忘れないであとから分析していたことが、いまのポケモンをつくるとき、まあその他のゲームでもそうだけど、大きなバックグラウンドになるんですね。ゲームボーイにこだわったというのも、自分が体験してきたゲームの技術の延長線上で、もっとも進化して手のひらまで近づいてきたハードウエアですからね。

それと、ゲームボーイのよさは「ドット絵」ですよ。中学生のときというのは、グラフ用紙を初めて使う時期なんですよ。だから、テレビゲームの体験をあの年にするというのは、大事なことで、インベーダーゲームがドツト絵でかかれているということが、すごく素直に分かるんです。授業中にグラフ用紙(のマス目)を塗りつぶしてゆくと、出来上がるわけですよ。で、1個塗りつぶしただけで、目が異様に小さくなったりするわけです。ドット絵1個が持つ意味というかね、絵を描くときの意味とかね、そういうことをそのときに覚えたわけです。

3 隠れキャラ

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第4章 ポケモンワールド

たとえばUFOが出てきたときに、UFOを追いかけて撃ったら、UFOが消える瞬間に当たった。すると、当たった瞬間、それは次へ行ったということでプログラム上は消えていますから、その後次にUFOが出てくると、出てきたとたんにいきなり爆発する。当たった記録がプログラムに残っているんだけど、表示は終わってしまったと。それで、次に表示されたときに、当たったという記録だけが甦って爆発するわけです。そのときには全然違うところでゲームやっているわけですけど、出てきた瞬間に爆発して、点数が出てくるわけ。テクニックっていうかね。はじっこに行ったときに、今のは消えたけど当たってるなって分かったら、その後で15発空打ちしておけば、出た瞬間に300点が出るわけですから。そうするともう、作っている人の都合とか想像力をぜんぜん超えたところに、プレーヤーはプレーヤーなりの学問というのができてしまう。仕組みを作ればそうなるんだということは、そのあたりでもう分かった。

だから、ポケモンでいうと、ミュウなんかはその発想の延長線上にある。ミュウをいれようと思ったのは、1978年ごろの、インベーダーの都市伝説が頭にあったからです。88発空打ちして、真中の列の一番上の30点のインベーダーを撃つと1500点が入るとか、確かめようがない都市伝説、で、それは本当かウソかは、あまり関係がない。いや、ウソなんです。けれど、ウソだとよけいに「本当になる」までやろうとするじゃないですか。だから、伝説そのものは語り継がれ、生きていく。そういう一種の都市伝説というか、口承文化というのかな、そういうものが、からだで体験したっていう感じかな。

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それで、インベーダーの後、『ゼビウス』(1983年、ナムコ、遠藤雅伸)が出たときに、また同じような体験をしたわけですね。何にもないところに爆弾を落とすと、外れだから何も起こらないはずなんだけど、なんかこう生えてきて、それに長い影がついている。非常に長いタケノコのようなものです。それが生えてきた。だから、それがこうゲームで蒔絵のようにスクロールしてきて、そこは何にもないところなんだけれど、地形で場所を覚えておいて、そこにミサイルを打ち込むと、それが生えてくる。それが全部で44本あったわけですけど、まあ、その場所をひとつひとつ確定していって、その蒔絵、今でいうマップなんだけど、そういうものを印刷物として、形にしてきちんと残して、第三者に配布するーー。これが今の攻略本の先駆けなんですね。あれをつくった遠藤さんていう人は、『インベーダー』のときに起こっていた都市伝説の現れ方を分かっていた最初の世代の人だとも思う。工場にプログラムを発注して量産しようと思うと、そのタケノコのようなものが生えてくるなんていうのは、企画書に載っていないわけです。見えなくてもゲームデザインはできるのだということを、最初に意識して、分かって最初にやった人。それが遠藤さんです。でも、工場の方では、なんか変なものがでてくる、故障してるんじやないか、となります。

でも、それを、「気にするな」といって量産させるというのは、そのときの社長とか現場の責任者の裁量に負うところが大きい。で、ソルっていう秘密基地に値するものが地中に隠れていて見えないからまたまた禅問答のようなものが始まっちゃう。それを呼び水にして、なんか海のある埠頭の先を打つと旗が立ったりというのがい

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第4章 ポケモンワールド

っぱい入っていた。今でいう隠れキャラクタ—といわれるものの一番最初ですよね。そんな情報が噂として学生の間を往来し始めると、あることないことがいっぱいくっついてくる。初めてゲームを作る人に焦点が当たったのが『ゼビウス』ですが、その頃ナムコにいた遠藤さんが、自分でゲームマニアの人などに、このゲームは最初はベトナム戦争をモチーフにしたゲームだったんだけど、血なまぐさいからSFにしたというような話をするわけです。最初に作ったファントム戦闘機とかヘリコプターとかのキャラクターがそのまんまROMの中に残っているとかね。ゲームマニアがクリエーターに近づいて、そういう話ができるような状況になったわけですね。そういう話を聞いて、また伝説や噂が大きくなったんですね。100万分の1の確率でファントム飛行機が出るらしいとかね。ギャラクシアンが100万分の1の確率で出るらしいとかね。その頃になると、商業誌の中にもゲームに着目する人が出てきて、ゲーム雑誌が少しずつ出てきて、コンピュータ雑誌もテレビゲームを扱うようになってたんですが、そういうものが、検証しようのない噂も含めて、いろいろな伝説のような話も取り上げるようになっていったわけです。そうすると、ゲームを遊んでいる立場からすると、ゼビウスにギャラクシアンが飛んでくる確率が100万分の1でもあると聞いたら、やらざるを得ないというかね。100万回やりやあ1回は出るんだな、という感じでね。

いや、大変だったんですよ。犬が画面を横切るとか、シュールな噂がいっぱいあったんです。そのほとんどは誰も確認していないんですよ。「友達の友達が見た!」みたいな感じで。「友達の友達が、千葉の方で犬を見た

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っていってるぞ」っていうから「ほんとかよ」みたいなね。それで、どんな犬だったんだ? とか聞くと、赤くて丸かった、とかいうわけですよ。なんだそりやあ。赤くて丸い犬ってなんだ? 犬なのか、それ? っていう感じで。確かめようがないわけですよ。

そういう体験をいくつもしてきて、自分でポケモンを作るときに、ゲームに対しての神話の現れ方とかね。このゲームはこれこれこういう事が起こるらしいとかね。環境に対しての想像力というかね。そういうものを含めて、分かってやったことですね、ミュウは。キャラクタ—はあるけど出ない。ファントム飛行機と同じなわけですね。だけど、何らかの原因で、いるっていうフラッグが立つと、いるということになって、ケーブルで交換すると、ちゃんと人々の間で生きつづけることができる。

しかも、そういう体験をしてきて分かっているやつが、一定のボリュームで周辺にいないといけないんですね。それは、ゼビウスのときこんなことがあったねとか、インベーダーのときこんなことがあったね、という話ができるようなね。ようするにね、ゲームの世界にも、柳田国男が必要だっていうことなんですよ。

4 ポケモンの開発

ポケモンが出来上がったときのことですか。疲れたのかとか、達成感があったのかと聞かれても、それは社会

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第4章 ポケモンワールド

でポケモンが受け入れられたかとか、どんなふうに受け入れられたかという関係性の中で感じることですから。っくっているときは、死にそうだなあと思いながら、いつもと変わらずだけど、いつもよりは精一杯やるという感じでした。出来上がってからは、200万本くらいまでは、思いとしては普通というか、より広く深く人に受け入れられるための方法というか、同じベクトルで、ポケモンのパート2をつくろうと思っていたわけです。それが、200万本を超えた辺りで変わっちゃった。つまり、広く深く受け入れられようと思ったら、それ以上に広く深く受け入れられてしまったわけだから、ちよつとやりようがなくなっちゃったという面はありますね。その後、システムとして完成したものをより完成度を高めて、パート2という形でもかまわないから、みんながより広くポケモンを認知するっていうのを作れると思っていたんですよ。そういう想像もしたし、準備のための合宿とかもしてたわけですけど、もうその頃は一週間ごとに状況が大きく変わるっていうか、考えているよりも広く深く受け入れられたり、環境が変わるというか、自分自身よりも外部の方が大きく変わるので、それに自分を合わせるのに精一杯でしたね。ホームスチールをしてね、全力で滑り込んだんだけど、滑り込みセーフだったのかアウトだったのか、よく分からない状況でばたばたしているという感じですね。土煙が上がって、よく見えな

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いっていうか、よくわかんないっていうね。セーフなのかアウトなのか、早く言えっていうようなね。それはぼくが子供の頃に、ウルトラ怪獣を買ってもらったらうれしかったという思いがあって、ゲームの世界では今までそういう商品が付帯してイメージが広がってゆくというのはなかったんだけど、自分の体験で行くと同じようなものをというのがあって、ポケモンをデザインするときも、立体としてはこういうようなあり方をしているという想像をして、きちんと設定していたわけですから。

開発時にはね、ソフトメーカーとの間に、駆け引きがあるんですよ、やっぱり。最初1OO匹くらいは手元に持つていたいっていう気持ちはあるよなあということで、そうなっていたんですけど、手にもっている設定になっている6匹については名前を付けるけど、預けちやったら名前が消えちゃうとかね。そういうレベルで、メモリーを節約するためにある程度割り切って途中までつくっていたんですよ。

だけど、一つひとつに、かかわったものに名前を付けようと思えばつけられるんだという風にしたほうがいい、っていう風に、いろいろ考えた結果思ったわけですよ。それとメモリー問題というのは同時並行で起こっていて、とにかくセーブするものも、一回名前を付けたものはちやんと残るようにしようということにしたんです。そうしたら、セーブできる数が3分の1くらいになってしまいますよって言われたんですよ。それで、30匹とかになっちゃったわけですよ。それでも、30匹になってもいいから、名前を全部付けるっていう風にしてやろうということに社内ではなったんです。メモリー問題というのは、RAMが増えたりセーブでき

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第4章 ポケモンワールド

る場所が増えたりすればどうにかなりますけどどうでしょうと、資料を用意して石原さんに相談したわけです。そうすると、実際に名前に対してのかかわり方が、ホントに手に持っているやつにしか名前を付けられないというよりは、名前を付けたらそれが残っているっていうほうがいいっていうように説得ができたら、メモリーも増やす努力もしましょうということになったんです。

30匹ずつ入るというボツクス、あれが1個だったわけです、最初は。で、名前を付けるっていうことにこだわらなければ、メモリーを増やすということにこだわらなくてもたくさん取れてたんです。でも、名前がついていなければ、自分のものだという風にはならないわけです。ぼくが、名前を付ける重要性というものを真剣に考えて、メモリー問題を中心に話をするって決めたんですよね。たとえば、子供のときから、先生に名前を間違えて呼ばれたら頭にくるじゃないですか。それは俺じやないと思うわけです。そういうこととか考えてて、確かにこっちの方がいいけど、メモリー問題は残るよねっていう認識ができたわけです。

それで交換するときに、そもそもなんで交換するのかっていったときに、最初に欲しくなるものをあげるっていう動機のほかにも、強力な動機付けが必要だと思ったんで、たとえば里親のように自分のものを相手に預けることで、お互いが得をするという仕組みを打ち出せないかと思ったわけです。そうすると、人の場所にポケモンが移動したときに、ちよつと早く育っとかちよつと強力になるという風になれば、それがわかれば交換する動機になるなあと思ったわけです。ところが、自分のゲームボーイかどうかということをどうやって知るのか、とい

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うことが問題なわけですよ。

で、そのためには、乱数で自分のカセツトのIDナンバーっていうのを、6万5000くらいの数字の中から選び出して、それぞれ勝手に付ける。カセットのIDが乱数で決まったら、そこから生まれ出てくるポケモンのIDナンバーはみんなその番号なわけですよ。そうすると、乱数でIDナンバーがついているわけですから、確率としては6万5000人と交換しつづけない限りは、同じ番号の人と交換することはないですから、ぼくとキミのIDナンバーは違うよねっていうことで、それぞれ別の世界が持てるっていうことになっているわけです。それで、IDナンバーをつけてゲームを続けていくと、そのナンバーはずっと消えないということになるわけですよね。だから、プレーヤーの立場で言うと、カセットを買ったときにすでに全員がそれぞれカセットが違うんですっていう理解でカセツトを買ってもらうという風に、宮本さんに話をしたんです。そうしたら、仕組みとしては面白いけど、ちよつと分かりにくいなといわれたんです。やっぱり、見て分からないといかんのやないかって宮本さんが言って、色が違って見た目が違えばよう分かるって言ったんで、へえ、そんなことしてもいいんですかって言ったんです。そうしてもらえれば、ぼくは助かるけどって。

だから、IDナンバーが違うっていうことを言いたいがために、象徴的に色を変えるというアイデアが出てきたわけです。だけど現実としては、色も変えましょうと。色も変えるんだったら、もうちよっとがんばって、色が違うんだからもう少し、色によっていろいろ違うっていうふうにしなければならないということになったんで

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第4章 ポケモンワールド

す。だから、五色とか七色作りたいなあって思うんだけど、現実問題としてそういうことはできないわけだから、とりあえず、最低の二色だということになって、赤と緑になったわけですよ。

それで、ポケモンがある程度出たときに、まだこの世界をより広げたいなあって素朴に思っていたときに、サービスのつもりで最初にできなかった色違いっていうのをって思って、青を作った。で、それを久保さんにも話をして。だから、そのときはプレゼントしたいと思ったわけ。こんなに認められるって確信もしてなかったし。ハンダ付けで手作りのROMでもいいじゃんって思ってたんです。で、これっくったんですけどっていって持っていったら、ちよつと感触が違ってたんです。大きくなってたんですね。

ROMカートリッジの種類をいくつか出すというのは、リスクが大きかったんですよね。極端な話が、同じものを色を変えて売っていいのかっていうふうに思う大もいるわけだ。だから、ちよつと違うんですっていうふうに、前向きにきちんと提案できて、商品もそういうふうにできるってしておかないと。宮本さんはいいって言ってくれたんだけど、工場のほうでは、おんなじものなら同じ色でいいじゃんとも言っていたというんですよ。ぼくとしては最初に、色が違うっていうことで、買うところからゲームは始まるってところに、ポジティブな返事がくれば、(売れると思っていた)。男の子がポケモンを全種類網羅したいと思って、赤と緑の両方をそろえたら、全部集まるんだって分かったら、好きな子は両方欲しくなるだろうなって思ったわけですよ。で、そのためには、やっぱりファイルの、ポケモンセンタ—に預けておくポケモンのファイルを、かなりきち

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んと保護をしておかなければと思いました。もし、簡単にコレクションが集まってしまうと、今はすぐに中古ソフト屋にみんな売っちゃうわけですよ。そういう仕組みをゲームの作り手が理解していて、子どもたちがそういうことを思わないようにしたんです。子供たちが、ポケモンという生き物がポケツトの中にいるっていうふうに思えるようにつくったんです。自分のポケモンが生きているって思えば、中古屋にすぐに売るっていうふうには思わないわけです。そういうのが総体でいい影響を与えて、売り上げがよくなったと思ったんですよね。いま、世界中でヒットしているというのは、基本的には、一つひとつについて素直に喜びたいとは思っているんだけど、ちよつと想像を超えた膨大な商品とか、世界への広がりを考えると、考え方を変えないといけないなって思いますよ。でも、たとえば考えていたより1000倍儲かったから、じやあ1000人(社員を)増やすかみたいなね、大人のビジネスの世界では当たり前のようなことを、そのままするわけにはいかない。大人の面と、世界のどこへいっても、子供が青年になって大人になっていく過程で通る体験とか、世界観の移り変わりというのかしら、そういうものと両方を持っていないとならない。作り手の側と、それをコントロールする側というのは、あまりにも違いすぎるので。むずかしいね。

5 テレビ事故

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第4章 ポケモンワールド

テレビアニメのいわゆるテレビ事故については、知ったのはNHKのラジオのニュースでしたね。まだ早かつたんです。七時くらいにはもう行ってたかな。車で家に向かっていたんですけど、車で聞いたんです。その場から会社に戻ったんですけど、そしたら会社にまだいた連中は知らなくて。

テレビモニターというのは、小さなときからずっと付き合って育ってきたから、いまの方がずっとそうなんだけど、テレビというメディアの持っている危うさっていうのかしら。ぼくらの世代までは、テレビに近づくなといって、叱られて育ったわけですよ。でも、いまはテレビはずっと大きくなったにもかかわらず、そういうことがほとんどなくなっているんですよ。

偶発的なものもあると思うけれども、潜在的にテレビが持っていた問題だし、大人が考えている以上にテレビが子供に影響を与えているんだというようなことを、あまりにも大人が考えなさすぎるって思っているんですよ。それはこの事件のときも思っていたけど、実はいまも変わらないんですね。そのポジションが変わらない理屈っていうのは変わらないんでね。テレビ自体は健全にしようとか考えているわけでもなく、瞬間的に刺激的なものを作つてお金になればいいっていう人が増えている。

あるテレビ局なんか、あの後「お子様へ」といって、なるべく離れて見て下さいなんて出る。非常に不真面目っていうか、誠意が感じられないんですよ。お子様へというのが、もう対象が朧になっているような感じがするわけです。まあ、だから業界で決まったルールは機械的に最低こなしてこうなってますっていうようなもので。

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やっぱりテレビを見る環境が引き鉄になっていると思うんです。モニターは大きくなったけど、子どもたちは親のいないところでテレビを見る状況が増えたりとか、それで肝腎の番組の中はテレビを見たらどう影響があるかっていうようなことは、研究をサボってきたわけです。そういう素地が基本的に当時もいまもあるんです。そこに、ちょうどお母さんがいるかいないか怪しいという時間帯で、子供が一番おなかがすいている時間で、これだけ文化が多様化し細分化してるわけだから、子供もみんなばらばらのものを見ていればいいんだけど、結局テレビ番組全体のクオリティが下がっているから、いいと思ったものをこどもがみんな固まって近寄ってみていた。だから、集中して思わず近寄ってみちゃうという状況があって、それに対して何かいう人もいないと。NHKのニュースを聞いて、会社に戻ったのは、会社にまだ人が残っているというのは分かっていたから、彼らに教えてやって、少しそれについて話がしたいとも思ったし、情報を集めるには会社にいた方がいいとも思ったので。アニメはアニメで、アニメ制作の現場でどたばたしてる感じっていうのも分かってるんで、なんであそこがああいう映像になったかというのも大体分からなくもないわけです。やっぱり、原因はひとつじやないわけだ。公害もそうですよ。いろんな理由が複合的に作用して起きるんですよ。

あの時も、ポケモンの点滅するシーンを見たからなったというよりも、その環境とかそのときの日本人のテレビに対する子供の生活と大人の生活のあり方っていうのが、こういうふうになったわけです。だから、むやみに点滅を増やしてシーンを作ろうという試みが増えましたよ。ダークサイドなクリエイティブっていうのはね。だ

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第4章 ポケモンワールド

けど、他の番組だと、ポケモンを見るときのようなセッティングにはないわけですから、ピカピカするものをつくったんだけど見てよって言われても、まあ、見ないよね、誰も。まあ、これで同じ事件がおきる可能性というのは限りなくなくなったに等しいよね。

ただ、タブーのようになつてしまったということには、ぼくとしては異議があるね。つまり、こういうことって、もう少しきちんと研究したり分析した結果を公開して議論をして警告してやらないといけないんです。でも、テレビ局は早く終わらせたいわけですよ、この事件を。触れたくもないわけだ。だけど、そうするよりは、こういう事件がおきたのはなぜか、とか、同じ事が起こるとしたらどういう状況が考えられるか、とかね。そういうことを後に残していくっていうか、語り継いでゆくっていうことをすれば、今後のアニメもゲームもテレビ番組も、一段、ステップアップすると思うんですけどね。

6 アメリカ

ぼくはアメリカはないものと思ってくれというような話を石原さんとしてて、一回照準から外したんですよ。クリエータ—としては、どの世界でも通用するものを作るんだという生き様でやってますから、その一番の証になったのが『ヨッシーのたまご』だったと思うんですよね(アメリカで200万本)。最初は、年末に日本のフ

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アンにヨッシーのたまごをアピールするためにやろうということだったんですけど、言葉の壁というのがないわけですから、純粋にゲームの魅力というのがアピールされれば、世界で売れてゆくと。一番最初に言った、ぼくのゲーム体験からいっても、最初から世界の壁というのがない世界なんですよ、テレビゲームっていうのは。最初に英語がちよろちよろと書いてあるくらいで、日本でもアメリカでも同じようなゲームで遊べると。で、遊び手としても世界の壁はないし、作り手に代わってもそれは同じだと思って、よりワールドワイドで商品を、ゲームをつくることを徹底するために、言葉を使わないコミュニケーションというものを目指していった。『クインティ』もそうだったし。『クインティ』のときに、頂点を一つ極めたわけですよ。言葉を使わないからゲームというものは世界のどこへいっても、面白いものは面白いとすぐ分かるんだと。だから、たとえばあれで床に星の絵が描いてあって、上を通ると星を取ったことになって、百個集めるとワンナップしたりするんだけど、その数字をどうするかで議論をしたりしてたんです。数字は言葉じゃないのかとか、取っただけ星のマークが増えるとかね。それを数字で言ったら言葉じやないか、とかね。

だけど、世界のどこへいったって数字くらい読めるだろう、みたいな話をして、議論を戦わせて、ぼくとしてはぎりぎりの妥協をして数字を入れたんですよ。その話を宮本さんにしたことがあったんですよ。そしたら、宮本さんが、田尻君はいい選択したねって言ってくれたんで、ぼくはものすごくそれが嬉しかったんです。やっぱり、宮本さんに誉めてもらうっていうのが、クリエータ—としては一番光栄っていうかね。クリエータ

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第4章 ポケモンワールド

ーとしては、横井さんに誉められるのは、親に誉められるのと同じなんです。ゲーム業界における父親的な役割でしたから。そうすると宮本さんはなんだろうと思うと、一番尊敬すべき兄貴、お兄さんということなのかしら、と思うわけです。いや、ずっと宮本さんが父親的存在だなと思っていたんですが、横井さんがあまりにもゲーム制作としての父親的な役割だなと思ったものですから、変わったんですよね。だから、宮本さんのゲームというのは、自分も同じ現場にいて創れそうな気もするんですよ。生意気に言うと、ライバルということになるかもしれませんが、どちらかというと、年齢も下で、兄弟としては下の方で、誉められたら素直に嬉しいから、誉められたいから作るっていうところがありますね。だから、しばしば、宮本さんだったらなんていうかなっていうことを考えますもん。『クインティ』のとき、数字を入れたんですと、信念を曲げたんです、俺はつ、て言ったとき、いい選択をしたねって言ってもらったという体験がね、いまも大きいですね。

日本でのアニメとカードとの三つの柱によって、ポケモンの周辺の商品の見え方も見えてきて、ポケモンがワールドワイドにゲームとして通用するって言う原点に戻ったって言うかねはっきり言って、やるんだったら自分でやりたかったということもあるわけです、現場で。ひとつひとつの言葉の翻訳の現場にね。まあ、そういうわけにもいかないって言うこともあったんですけど、それはいいように考えて、あまりにもスケールが大きくなってくると、自分のものっていうふうにこだわって区切る必要はないわけ

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で、ポケモンに対してきちんとメッセージを出したいっていう動機付けをできる人がどれだけ出てくるか、たとえばゲームフリークでも、ポケモンのキャラクタ—で、パズルゲームを作りたいとか、アクションゲームを作ってみようっていったときに、ちゃんと誤解しないで、ぼくがテレビゲームで学んできたような、リアリティとかを感じ取って作れればいいわけです。続編にしても、海外の何語版にしても、下手すると、全部自分でやりたいという衝動に駆られるわけですよ。その域を脱したっていうことに、今は価値があるわけで、そのためのもうーつの仕組み作りというのが、今の課題だろうと思っているわけです。

7 カントー地方について

それともう一つ、ポケモンのカントーのマップは関東地方がモデルになってるわけですけど、なんで関東地方かっていうと、ぼくは町田育ちなんです。町田っていうのは東京都のはじっこで神奈川に飛び出している部分なんですね。そうすると、天気予報も神奈川の方が当たるしね、雪の降り方も違うわけですよ。東京の天気予報とか当てにならないわけです。東京であって東京でないという複雑な思いで育ったわけです。しかも都市の周辺ですから、開発が常に進んでいる。ぼくは釣りをしたりザリガニを取ったりという体験を持っているんですけど、小学校のころ、釣り堀だったところが、次の週にはゲーセンになっていることもあった。

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第4章 ポケモンワールド

ゲームに夢中になるのと引き換えに釣りやザリガニ取りをやらなくなった、いや、やる場所がなくなった。郊外の、サバーバンっていうのかな、そういうのが日本では一番判りやすいところで育ったのかなって思っている。そうなると、学年が違うと、育った環境も全然違うんですよね。だから、ちよつと年上の人だと、ゲーセンの体験というのはそれほど強烈にはないわけです。もうちよっと、三つくらい下になると、町田にザリガニってそんなにいたつけっていうことになるんです。まったく変わっちゃうわけです。ぼくは恵まれていたと思いたいけれども、その両方を体験できたんです。だから、人の家の前が森になっていて、そこで虫をとっていて、ちょっと離れたところでは、家を作ろうと思って山を切り崩したら、化石がいっぱい出てきて開発を中断したままになっているところとかね。そこに学校で使っているのみとか道具を持っていって、がりがり地面を掘って化石をとったりとかね。ゲームにはまる前は、そんなことをしてた。

自転車に乗るようになると、神奈川県に津久井郡というところがあってそこに津久井湖っていうのがあるんですが、そこまで行動半径が広がる。自転車だと十数キロ先のあの津久井湖までいけるわけです。少年時代の、自転車でちよっとがんばった世界観というのがあの辺で、ちょうどこう、円周で見るとポケモンのあの世界というのが世界の端っこなわけですよ。で、その先になるとやっぱり電車で行くとかね、旅の感覚になるわけですから。だからそれのちよつと手前で、自分がいつも住んでいる場所から、日常で、今日は友達とここまでいったよっていうような、リアリティがもっとも深い世界のありかたっていうのかな、それがあの辺なわけですよ。

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グレン島もそうですね。あれは伊豆七島の一つでね。伊豆七島も東京ですから。高校生のときに少林寺拳法をやってたんですけど、その合宿とかだとあの辺に行くわけです。で、ここも東京かよっていうふうに思って。その「ここも東京かよ!」っていう思いの痕跡です、グレン島は。

で、ここからが面白い。いままでの町田や伊豆七島の話は、ぼくの個人的な体験です。ですが、キミがいうここは、うちでいうとここに似てるよ、ていうのが世界のあちこちにある。そう、まさにアメリカにもあるんだ。大きさはちよつと違うんだけど。アメリカでも、ポケモンを売る前に、似てる地形っていうのはどこかないだろうかと考えたりしたんです。ニューヨークに対して、ちよつと郊外にあたっている場所っていうと何だろうかとかね。そうすると、ボルチモアとかね、あのあたりの人は、100年前はうちは首都だったんだとか、いまだに学校で教えるときにこだわってるんだけどね。そういうのが面白いと思うんです。「金銀」のジョウトの方は、海外進出をまったく考えないときに、「金銀」のプロジェクトがスタ—卜して、そのときに、できるところなら日本全体を舞台にしたものを作りたいと思って、最初はそうなっていたわけです。でも、いま話したような真実っていうのが置き去りになってしまうというのもあって、それで、まあ、また試行錯誤が続いたわけですね。自分としては、自分で電車に乗ってどこまで行くのかというようなことがあってね。日本列島だってことがネタにならないようにしないといけないな、というのは、実は海外のマーケットがきちんと成立してから初めて考え直したところもあるんです。カントーと同じように、自分の国にも同じようなところ

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第4章 ポケモンワールド

があるって思える可能性をゲームの中に同じように残さないといけないなってね。そういうところを、行ったり来たりっていうのが、「金銀」のあのマップなんですよね。子どもがね、元気だったり落ち込んだりしていても、変わるものと変わらないものがある。その中で普遍的なものってなんだろう。そこでさまよった結果残ったものが、ポケモンのゲームデザインとしてそのまま残った。だからこれはほんとうの意味で普遍的なものなんです。普遍的なものがあるっていうのは、アメリカの映画『スタンド・バイ・ミー』を見たときに感じたことです。死体を捜しに行く気持ちとかね。死体ってあるかもしれないなっていうことを、子供は何のテレもなく考えるはずなんです。人が死んだら顔が見える形でお葬式とかすればいいんだけど、死体をみるっていうことがもうないんですよね。

横井さんがお亡くなりになったとき、急いで京都に行ったときも、人が大勢いて、儀式がたくさんあって、同じでした。それはもう社会の仕組みとして出来上がっているんだと思っていて、自分が祈るっていうことで、それは精神力でなんとかなるんだけど、リアリティっていうのは完璧に失われてきてるなって思うわけです。自分や自分の持っているポケモンは絶対に死なないじゃないですか。でもこの点は、もう非常に気を使ったわけですよ。今のような話を徹底的にしておかないとぜったいにだめなんです。ぼくだって、テトリスやって、立って、つみあがっただけで、すぐに死ぬ死ぬって言ってるわけだから。だけど、記録に残るもので、自分のクリエイティブで、そういう精神のリアリティっていうものを語るんだったら、相当に考えに考えて作らないといけ

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ないな、と思うわけです。そのあたりをつきつめた、という意味で、ポケモンはやっぱり王道だった。

8 ゲー厶の王道

でも、王道を実現するのは一番難しい。だから相当堂々巡りをした。

だって、つくっている間に、ドラクエの続編(ドラクエ5:スーパーファミコン)はできあがってくるし、その中にモンスタ—じいさんがいて今度はモンスタ—を使えるらしいよ、とか情報が入ってくる。そうなると、せっかくこっちのゲームができても、これ、真似じやないの、と言われるんじゃないかという話になる。しまいには、じやあ、これ止めるかっていう話が出たこともあった。結局は、志が違うんだからいいじやないかということになったんですけどね。ポケモンの後に出たゲームボーイのドラクエ・モンスタ—ズだって、志から言ったら、うちとは全然違うしね。ぼくらが持っているものとは違う。そう思う。

ゲームの世界で生きているぼくらからすると、やっぱり人のものをとったら泥棒っておもう。ただし、罰はないんです。たとえば体力の消費とかね。ああいうのもゲームデザインの中にうまく入れ込んであるんです。ゲームデザインだけで、モラルを考えなければ、ドラクエ・モンスタ—ズのようにしてもいいわけです。人と戦って、相手のモンスタ—が欲しいから取れるかもしれない。あれ、取れちゃうわけですから。

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第4章 ポケモンワールド

なんかドラクエって、ひとんちの引出しとか開けて、勝手にコインとっていったりとか、人のものをとったりするよねえっていうのが、笑い事ですんでいるうちはいいんだけど、それは「人のものを盗ったらどろぼうだ」というちやんとした定義があるから、そうしたずらした笑いっていうのが可能なわけです。だから、そこにはちやんと、盗ったらどろぼうという教育が必要なわけですよ。そういうものをないがしろにしてきたから、モラルハザードが起こっているんだろうと思うわけです。

だからぼくは、少なくともポケモンで育ちましたっていう人が、そういう基本を身につけることができるっていうのを、100%裏切らないように作りたかったわけです。

二ヤースとかは、世界に広がったときのコミュニケーションのきっかけの一つになるものだと思うんですよ。日本人だったら、猫に小判だというのは分かるじゃないですか。だけどあえて、額に張り付いているというのは、本人には見えないわけだから、つまり価値のあるものは自分自身にとって見えないということの一つのおかしさ、面白さっていうのがあるんだけども、海外に行くとそれは通用しないわけです。あれ自体、よくわからないということになるわけです。でも、それが会話のきっかけになるわけだ。

少なくとも、ここ5年くらいの課題っていうのは、マルチリンガルっていうことなんですよ。環境作りというかね。日本にいて日本人と話していれば日本語だけで十分だけど、海外に出ようと思えば、英語が話せた方がいいわけだ。英語が話せた方がいい理由というのは、外に出て外の人と話をするからなんですよ。ということは、

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英語ができりやあいいっていう話じゃなくて、中国語ができた方がいいわけだし、ハングルができた方がいいわけだ。でも、じやあ、なに話すんだよっていうときに、話すことがないというのが一番さびしいわけ。たとえば、64でもいいんだけど、何語のポケモン同士をつないでも交換ができるとか、そういう、ネツトでつながったときの会話が、共通言語に翻訳されて、コミュニケーションが可能であるというような環境を整えるということですね。やることはたくさんあるわけです。だけど、この先五年くらいの夢、というとかたいけど、テーマ、やりたいことですね、それが。インターネツトでも携帯電話でもいいんですけど。

やっぱりね、感動しますよ、ドイツ語のポケモンとかね。フランス語とかね。ああいうのをみていると、なんか妙な気持ちになりますよ。やつぱりこれは、互いの国同士のバージョンを交換して遊ぶっていうようなことも許すということにしたいよなって思いますね。

じやあ、お前がほんとに好きなのはどれだ、といわれるとね、基本的に好きな存在は、ニョロモなんですよ。町田が住宅で押しつぶされる前に、その辺の池とかにたくさんいたんですよ。二ヨロモは。ヒキガエルの卵。あれがたくさん池の中にあったんですよ。ヒキガエルの卵は小さいんですよ、実は。ヒキガエル自体は20cmちかくなるのにね、カエルのかたちになるまで、オタマジャクシもせいぜい1cmくらいにしかならない。で、カエルになって陸にあがったあと、あの大きなヒキガエルに育つんです。そのころ図鑑でよく見る

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第4章 ポケモンワールド

カエルとオタマジャクシの絵はいつもトノサマガエルだったんですけどね、町田にはヒキガエルもいっぱいいた。それからヒキガエルのオタマジャクシは黒くて、おなかが透けてる。そうするとね、腸がよく見えるわけ。卜ノサマガエルのように大きなオタマジャクシだとおなかの皮も厚いから、そんなに透けて見えないわけですよ。ヒキガエルはちつちやくて薄いからよく見える。

あれが、二ヨロモなんです。

そうそう、二ヨロモは進化するとおなかのウズマキが逆になりますね。あれは、だから世界の有り様として、南半球と北半球で二ヨロモのウズマキの向きが違うように、生き物にしてもなんにしても場所によって違うことってあるんだよ、ってしめしたかったんですよね。世界は多様なんだよ、ていう象徴なんです。

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